その圧倒的なギター・テクニックは誰もが認めるところ。指グセにとらわれることなく1曲1曲まるで違う楽器のように聞かせるギターのユニークな演奏は、このCDからでも充分に伝わってくるだろう。ジョンは最初、今は亡きブリティッシュ・フォークの巨匠ジョン・マーティンにその才能を見いだされた。他にもマーティン・シンプソンや、これまた晩年のデイヴィ・グレアムにもかなり目をかけてもらっていたそうだ。ジョン・レンボーンはジョンを「フォーク音楽の未来」と呼んでいる。英国フォーク界、しかもギターの巨匠たちがこぞって応援するのが、この新しい才能、ジョン・スミスなのだ。
デヴォンシャーの牧師の家に育ったジョン。10代の終わりに髄膜炎を患って死にかけるという体験をする。あまりにもその体験が強烈だったため、しばらくはそのことを忘れるように勤めてきたが、ここ数年、そのことを考える機会があり、それによって出来たのが本作1曲目に収録された「Invisible Boy」。幽霊になった自分を描いた曲だ。この曲の他「Watch Her Die」や「Death And The Lady」など、このアルバムの大きなテーマは「死」だ。それはブリティッシュ・フォークの世界ではよくあるテーマでもある。そして「どこかに旅すること」「さまよい歩くこと」が曲の根底にあり、それらすべてがアルバムタイトルの「地図または道案内」と、そのユニークな制作方法(次項参照)に共鳴している。
アルバムのプロデューサーは、マドンナやベイスメント・ジャックス等を手がけたジェイスン・ボスホフ。リサ・ハニガンの「シー・ソウ」などフォークの名作品もプロデュースしている。ジョンのデモを聞いたジェイスンは「スワンプ地帯が聞こえないか? 列車が聞こえないか?」と言い出し、米国の深南部を旅して、様々な場所で録音するアイディアを持ちかける。ジョンは最初このアイディアには反対していたのだが、最終的に2週間後、二人はダラスへ向かう飛行機に乗っていた。車を借りてラップトップとマイク数本を積み込み、テキサス、ミシシッピ、ルイジアナと回り、狭い浴室や酒場、博物館といった室内から、森の中や橋の下、入り江といった様々な屋外の場所で録音を行った。耳をすませると、鳥や虫の音、風のそよぐ音、列車の通りすぎる音、そして銃声までが背景に入っている。
ジョン・スミスは現在27歳。生まれこそイングランドの東部エセックスだが、南西部のデヴォンの小さな漁村で育った。牧師の父は音楽好きで、家ではいつもレコードがかかっていたという。ある記事には「マディ・ウォーターズ、ライ・クーダー、ポール・サイモンなどを聴いて育ち」とあったが、それらは父親のレコードで親しんだということのようだ。
11歳のとき、その父親がこれを聴いてみろと、レッド・ゼペリンの「カシミール」(75年の『フィジカル・グラフィティ』収録)をかけてくれ、ジョン曰く「頭が爆発した」。それをきっかけに彼は父から与えられたギターを弾き始める。
そして16か17歳のときに再び衝撃を受ける音楽との出会いがあった。当時ロンドンに住んでいた兄を訪ねていったときに、彼がニック・ドレイクの72年のアルバム『ピンク・ムーン』を聞かせてくれたのだ。ジョンはそのアルバムによって「すべてが変わった」と語る。「ギターの弾き方についても変えてくれたが、この世界における自分の居場所についても変えてくれた」と。
『ピンク・ムーン』とバート・ジャンシュとジョン・レンボーンがペンタングル結成以前の66年に制作した共演盤『バート&ジョン』がジョンの新たな先生となった。自分の部屋に閉じこもり、この2枚のアルバムから全ての音を学ぼうとする日々が続いたという。
ジョンは大学に進学してリヴァプールに移る。引き続き練習を重ねながら、やがて人前で歌い始めるのだが、その前にこんな出来事もあった。バースで行われている国際ギター・フェスティヴァルに裏方の仕事で参加していたところ、メイン・イヴェントのコンペティションに人数合わせのための出演を頼まれる。それが人前での初めての演奏だったそうだが、彼のギターの腕前はたちまち審査員に強い印象を与えて、なんと優勝してしまったのだ。
それからライヴ活動を始めるが、ある日の観客に英国フォーク界の大物ジョン・マーティンのエージェントがいた。その人が終演後に「とてもよかったよ、マーティンのツアーに参加しないかい?」と彼のオープニングの仕事をくれたのである。当のマーティンもジョンをとても気に入り、最初のツアーが終わった後もまた来いよと誘い、09年1月に彼が亡くなるまでの2年半ほどの間、ジョンはマーティンのツアーに断続的に参加して、彼にかわいがられた。
ジョンはマーティン以外にも英国フォーク界のそうそうたる顔ぶれのオープニングを務める機会を得てきた。ジョン・レンボーン(ジョンを「フォーク音楽の未来」と呼ぶ)、マーティン・カーシー、マーティン・シンプソン、そしてデイヴィ・グレアムといった名人たちである。08年12月に亡くなったグレアムの最後のツアーのオープニングを務めたのがジョンだった。言わば、ジョン・スミスはマーティンとグレアムという英国フォーク界の巨人2人にバトンを渡された若者なのである。
そうした先輩たちのオープニングの仕事と自分自身の地道なライヴ活動を通して、ジョンはその歌声とギターの腕前で少しずつファンを増やしてきた。(五十嵐 正/ライナーノーツより)