JPP - Järvelän pikkupelimannit
フィンランドの西ボスニア地方のカウスチネンは、フィンランドの伝統音楽の最重要の地として知られている。音楽をお金のためではなく自らの楽しみや悲しみを表現する手段とし、主に冠婚葬祭のために演奏するペリマンニ(農村楽師)は、かの地の文化の中心であった。
1980年代の初頭、この地のペリマンニ文化を現在まで継承し、スイングジャズなどの影響を受けたバンドとしてヤルヴェラ村からJPP(ヤルヴェラ村の小さなペリマンニたちというフィンランド語のバンド名を簡略したもの)が出現。彼らはあっという間に、この文化をフィンランド国内ばかりではなくアメリカや世界中に紹介する存在となる。
ヤルヴェラはフィンランドの伝統音楽界でもっとも重要なファミリーネームであり、かつ村の名前でもある。ヤルヴェラ・ファミリーは、全員それこそフォークやナイフを持つ前からヴァイオリンを弾いていたとまで言われいるゴリゴリの伝統音楽一家だ。ヤルヴェラ家において、音楽の血筋は何世代にもさかのぼることができ、何代にも渡って伝説のマスタープレイヤーを何人も輩出している。(またすでにJPPの1つあとの世代もFriggという新しいバンドで活躍している)
JPP結成当時のメンバーはまだ17歳から25歳と若かったこともあって常に注目されていたが、その最初のブレイクは1982年、フォークミュージックのコンペティションで優勝したことであった。当時のメンバーはアルトと彼の兄弟のヨウニ・ヤルヴェラ(ベース)、ヤルモ・ヤルヴェラ(フィドル)、ユーハ・ヴァリラ(フィドル)、ティモ・アラコティッラ(ハーモニウム)の5人だった。フィンランド国内中をツアーするようになった彼らはすでにその活動の地をスウェーデンにまで広げることになる。
83年に最初のEPを自分たちでリリース。このころまでにはカウスティネン・フェスティバルでの自分たちの地位を確立していった。84年にアルトの伯父であるマウノ・ヤルヴェラ(フィドル)に参加。ヤンネ・ヴィルカラがベースとして加わった。ヨウニ・ヤルヴェラはフィドルに転向。フィドルは5人になった。この時点でバンドはタイやシンガポール、エジプト、ポルトガル、デンマークなどをツアーするようになった。
85年にレコーディングされ86年2月にリリースされたファーストアルバムで、バンドはその年のカウスティネンのバンド・オブ・ザ・イヤーに輝く。87年にはカウスティネンで92分ノンストップで演奏するという驚異的な記録を打ち立て、まさに不屈のペリマンニ魂を見せつけたのであった。この頃からJPPはものすごいライブバンドとしての評判を得ていくようになる。89年にフィンランドの国営テレビは彼らの演奏を40分ライブで生放送した。この頃には彼らはヨーロッパ中の国際的な音楽フェスティバルにも参加するようになっていった。91年にはWOMADやイングランドのSidmounthフェスティバル、ドイツでのツアーなどにも出演。92年に3週間に渡る始めてのアメリカツアーを成功させる。4枚目の「Pirun Polska」がリリースされ、トロントのWOMADにも出演。このときにPuikkoristikkoのプロモーションビデオが制作されカウスティネンでプレミア上映された。この8分のフィルムは、フランスやドイツでも放送されタンペーレのショートフィルムフェスティバルで特別賞を受賞している。
ツアーに参加していなかったユンニとヴァリラ兄弟に変わってマッティ・マケラと、トッミ・ピーコネンが正式メンバーとなり、93年もバンドはドイツ、カナダなど忙しくツアーをし世界中を廻った。94年に「DEVIL'S POLSKA」をリリース。これがアメリカでもリリースされる。この頃からアルトとティッモはマリア・カラニエミ(アコーディオン)のバンドメンバーとしも全世界をツアーするようになる。バンドは多忙を極める。94年に5枚目の「Kaustinen Rhapsody」がアメリカでツアーし、最大規模のアメリカツアーが催行されると、バンドはビルボード誌に絶賛されたり、各有名ラジオ局に出演するようになった。ヨーロッパでは最初のWOMEX(当時はベルリン)にフィンランド代表として出演した。
95年になるとアルタンやスティーブ・ライリーらとともにNew YorkのWorld Financial Centreで演奏。ベルギーの名門フェスティバル、ドランノーターフェスティバルにも出演し、スペインのバスク地方でもコンサートを行った。
97年にベースがティッモ・ミリカンガスに代わり、オースティンのSXSWにも出演。98年にはニューヨークのニッティング・ファクトリーに出演し、テキサスではベラ・フレック、ジェリー・ダグラス、トニー・ライス、モーリー・オブライエン、ショーン・コルヴィンなどとも共演した。ここでJPPの現在までの最高傑作といわれている「ストリング・ティーズ」がリリースされる。ここではヤルヴェラ家のさらなるフィドル奏者たちや、スウェーデンのヴェーセンがゲスト参加している。またマウノ・ヤルヴェラの作曲による「Hale Bopp」はラジオでも多くオンエアーされたそうだ。
99年にはアメリカをノルディックルーツフェスティバルと称してヴェーセンやノルウェーのアンビョルグ・リーエンと一緒にツアー。2002年にはドキュメンタリー番組「JPP, The Incredible Finn Band」が制作されヨーロッパの各国で放送される。バンドは、現在でもコンスタントに演奏を活動を続け、最近ではマリア・カラニエミとともにBBCコンサートオーケストラとの共演を果たしている。
2010年の初来日に引続き、奇跡の再来日が決定!